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加仁湯を知る人々には賛否両論がある。よくよく考えてみると、そこには互いに相容れない、二通りの意識があるように思う。
まず加仁湯を評価する人は、自然を愛し、いまでも山小屋気分で訪れている。山の幸・酒・極上の湯があれば何も要らないという考えで、私はこちらの立場である。年に一度は鬼怒沼へ登るついでに訪れているが、手白沢・日光沢・八丁とある中でなぜ加仁湯かと聞かれれば、お湯が好きだからと答えている。ロビーの番頭が言うように、まさに“お湯だけが自慢”の宿であると思う。
逆に加仁湯に失望する人々は、リゾート気分ときめ細かなサービスを期待して訪れる。たしかに、山奥に似つかわしくない鉄筋の豪華な建物を見れば、それらしいもてなしを期待するのも無理はないが、部屋に通されたあとは、いっさいほったらかしの宿である。
結局のところ、時流に流されて、中途半端に事業を拡大したことが過ちだったのだろう。自ら門戸を広げたことで、結果的に登山客以外の人々も多数呼び込んでいることを経営者は自覚しなければならない。いくら“延べ人数”が増えたところで、真に加仁湯を愛する人々が増えなければ、やがては行き詰るときが来る。
行くたびに気になっていることだが、例えばバリアフリー設備はどうか。山道を歩き慣れていない日帰り客の送迎についてはどうか。たとえ理念に反することであっても、自ら広げた幅広い客層の要望に答えていくことこそ、山小屋の外観をかなぐり捨てた加仁湯の責務であると考える。
加仁湯を愛するがゆえの小言である。3人が参考にしています